スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--/--/--(--) | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

初春大阪ぶらぶら

最近のネタ探しで、大阪をぶらぶらと散策しました。いろんな人がいるもんだな~
外へ出ると何かに出会いますね^^


O-1.jpg

O-2.jpg

最近のペットはフクロウが人気なのか、
フクロウを持ってきているオジサンたちがたくさんいました。大阪城で

O-3.jpg

O-4.jpg

懐メロばかり歌う人、昭和の雰囲気でなかなか聴かせます。
O-5.jpg

O-6.jpg

ちちんぷいぷい 毎日TVだ
O-7.jpg

むむ、Loftの前で人だかり?
O-8.jpg
礼儀正しくお客様にご挨拶です。
O-9.jpg

あれれ、そっぽ向いたぞ、なにか気に入らないのか?お姉さんが困り顔^^
O-10.jpg

O-11.jpg

O-12.jpg


どや顔
O-13.jpg

2016/02/14(日) | イラスト | トラックバック(0) | コメント(2)

平成28年初詣

新年あけましておめでとうございます
  本年もどうぞよろしくお願いいたします。


家でゴロゴロしてばかりなので京都まで初詣に出かけました。

YAS1.jpg

YAS2.jpg

清水二年坂の総本家ゆどうふ奥丹で食事
YAS3.jpg

YAS4.jpg

丸山公園で尺八を吹くオジサン
YAS5.jpg

YAS6.jpg

2016/01/03(日) | イラスト | トラックバック(0) | コメント(2)

OSAKA光のルネサンス2015 ぶらり

久々の更新です。
大阪淀屋橋界隈 12月24日
「OSAKA光のルネサンス2015」を開催してたので
仕事帰りにぶらりと行って見ました。


yo1.jpg

yo2.jpg

yo3.jpg

屋台の多国籍化
yo4.jpg

中之島公会堂壁面にプロジェクションマッピング
yo5.jpg
今年の更新はこれで最後です。
訪問してくださいました方々どうもありがとうございました。
酔い新年をお迎えください。

2015/12/31(木) | イラスト | トラックバック(0) | コメント(0)

琵琶湖竹生島、長浜城、長浜市内探訪 後半

長浜城築城の経緯
さて後半です。全文ウィキペディアよりの抜粋です
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から
浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から
一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに
隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。
城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には
当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。
勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城するが、同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、
勝豊は城ごと降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が入り、6年間在城した。
1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。

1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は
摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。
彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は
長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。
同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。




竹20
天守閣から長浜市内を眺望
竹21

竹22

竹23

竹24
北国街道をゆく
竹25

黒壁ガラス館
竹26

竹27

竹28

いろんなガラス製品が所狭しと飾ってます。触れて壊さないように気を使いますよ
竹29

竹30
結局切子のぐい飲みを買いました。¥高いな~
帰りに長浜浪漫ビールてレストランで地ビールを飲みウインナーソーセージで舌づつみ。うんめ~~~!

2015/05/17(日) | イラスト | トラックバック(0) | コメント(2)

琵琶湖竹生島、長浜城、長浜市内探訪

久しぶりの更新です
今回は琵琶湖の(1回目)竹生島と(2回目)長浜城・長浜市内を観光してきました。
なにせ日帰りなものであわただしく取材してきました。戦国時代、歴史の街を
充分紹介は出来ませんが、そこんとこは勘弁してね、ではどうぞ^^
つぶやき・・・・皆さんはもっと豪華なGWをすごしたんだろうな




4136a5783c0aec9080ba71ae050f5f7c[1]

長浜港→竹生島(上陸80分)→長浜港 計=2時間20分のコース 大人3070円
竹1

竹2

2階の展望デッキに席をとり、かなり古いニコンD80一眼レフデジタルカメラで準備
竹3

波しぶきをあげながら湖面を切り裂き進む。あっ!あれが竹生島
竹4

さぁ着いた
竹5

こんにちわ、こんにちわ、観光を終えた見知らぬ人にあいさつ。
竹6


竹7

竹8

竹9

かわらけ投げ、鳥居の廻りの白い砂利みたいなものすべて投げたかわらけの破片
竹10

竹11

竹12

宝厳寺(ほうごんじ)は、滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。
山号を巌金山(がんこんさん)と称する。本尊は弁才天(観音堂本尊は千手観音)、開基(創立者)は行基とされる。
西国三十三所観音霊場の第30番札所である。観音霊場であるとともに、弁才天信仰の聖地でもあり、
日本三大弁才天の1つにも数えられている(他の2つは厳島神社と江島神社とされている)。

竹13

竹15

竹16

竹生島流棒術だって?初耳なので調べました。
平安時代末期、流祖・難波平治光閑(大坂の人)は信仰していた竹生島弁財天より
難波流長刀術を夢想奉得した。源平合戦の折、戦いの最中に長刀の込本から
折れた柄のみの棒で戦ったことから、これを竹生島弁財天の冥恩であるとし、
竹生島流棒術と名づけた。 同系と思われる霊山竹生嶋流棒術の伝承では
竹生島弁財天(竹生嶋弁財天)の啓示を受け、難波流薙刀をもとに棒術を編み出したと伝えられている。
いずれの伝承も、竹生島弁財天の神託によって自分が創始した棒術を竹生嶋流棒術と称したと伝えられる。

ウィキペディアより抜粋
竹17

竹18

伊吹山です 標高1377m
薬草の山として有名でした。
織田信長が南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山に作らせる。その菜園には、
ポルトガル人が自国で用いていた約3000千種のハーブが移植されたといわれている。
「司馬遼太郎街道をゆく」に出てくる話で伊吹のもぐさの話が面白かった。

竹19

最後にまとめ
竹生島
古来、信仰の対象となった島で、神の棲む島とも言われる。南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、
宝厳寺(西国三十三所三十番)がある。竹生島神社は、明治の神仏分離令に際して弁才天社から改称した。
竹生島は神仏一体の聖地であったことから、分離の際には少なからず混乱があったようである。ちなみに、
竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。

戦国期には、近江国小谷城主であった浅井久政(浅井長政の父)が、
長政への家督委譲を目論む家臣団によって一時的にこの島に幽閉され、隠居生活を強要された。
全文ウィキペヂァ抜粋


長浜城へ続く

2015/05/06(水) | 写真 | トラックバック(0) | コメント(2)

«  |  HOME  |  »
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。