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八幡背割り堤で花見

花見に行ってきました。
京阪電車で八幡市駅下車

石清水八幡宮を含む男山全体が桜の名所ではありますが、もう一つ、
木津川を挟んだ向かい側にも、背割堤という桜の名所があります。
背割堤の桜をお楽しみ下さい。

また、風のさわやかな季節なら、八幡市駅前にある無料のレンタサイクルで、
時代劇のロケ地として有名な流れ橋までのサイクリングもオススメ・・・
背割堤(せわりてい)は、京都府八幡市にある堤防である。宇治川(淀川)と
木津川の合流部に全長1.4kmに渡って二つの河川を区切るように設置されている。
洪水発生時に両河川をスムーズかつ安全に合流させる役割を果たしている。


淀川河川公園の景観保全地区に指定され、ソメイヨシノが約250本植えられているため、
毎年4月には花見客でにぎわっている。


明治時代まで木津川は淀(京都市伏見区)付近で宇治川に合流していた。
1800年代後半には明治大洪水をはじめとして、淀川で多数の水害が発生した。
そのため、木津川と宇治川の合流部を現在の三川合流部に付け替える淀川改良工事が行われ、
1910年に現在の流路となった。更に1917年の大正大洪水の被害を受けて河川改修が行われ、
現在の背割堤が建設された。
1970年代までは堤防にマツが植えられていたが、虫害のため
ソメイヨシノに植え替えられ現在に至っている。1988年4月より桜並木の一般開放を開始した。


ウイキペデイ゙アより

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後ろの山は天王山豊臣秀吉が明智光秀を破った所、天下分け目の天王山
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2016/04/03(日) | 写真 | トラックバック(0) | コメント(2)

琵琶湖竹生島、長浜城、長浜市内探訪

久しぶりの更新です
今回は琵琶湖の(1回目)竹生島と(2回目)長浜城・長浜市内を観光してきました。
なにせ日帰りなものであわただしく取材してきました。戦国時代、歴史の街を
充分紹介は出来ませんが、そこんとこは勘弁してね、ではどうぞ^^
つぶやき・・・・皆さんはもっと豪華なGWをすごしたんだろうな




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長浜港→竹生島(上陸80分)→長浜港 計=2時間20分のコース 大人3070円
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2階の展望デッキに席をとり、かなり古いニコンD80一眼レフデジタルカメラで準備
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波しぶきをあげながら湖面を切り裂き進む。あっ!あれが竹生島
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さぁ着いた
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こんにちわ、こんにちわ、観光を終えた見知らぬ人にあいさつ。
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かわらけ投げ、鳥居の廻りの白い砂利みたいなものすべて投げたかわらけの破片
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宝厳寺(ほうごんじ)は、滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。
山号を巌金山(がんこんさん)と称する。本尊は弁才天(観音堂本尊は千手観音)、開基(創立者)は行基とされる。
西国三十三所観音霊場の第30番札所である。観音霊場であるとともに、弁才天信仰の聖地でもあり、
日本三大弁才天の1つにも数えられている(他の2つは厳島神社と江島神社とされている)。

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竹生島流棒術だって?初耳なので調べました。
平安時代末期、流祖・難波平治光閑(大坂の人)は信仰していた竹生島弁財天より
難波流長刀術を夢想奉得した。源平合戦の折、戦いの最中に長刀の込本から
折れた柄のみの棒で戦ったことから、これを竹生島弁財天の冥恩であるとし、
竹生島流棒術と名づけた。 同系と思われる霊山竹生嶋流棒術の伝承では
竹生島弁財天(竹生嶋弁財天)の啓示を受け、難波流薙刀をもとに棒術を編み出したと伝えられている。
いずれの伝承も、竹生島弁財天の神託によって自分が創始した棒術を竹生嶋流棒術と称したと伝えられる。

ウィキペディアより抜粋
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伊吹山です 標高1377m
薬草の山として有名でした。
織田信長が南蛮人から入手した薬草を栽培する菜園を伊吹山に作らせる。その菜園には、
ポルトガル人が自国で用いていた約3000千種のハーブが移植されたといわれている。
「司馬遼太郎街道をゆく」に出てくる話で伊吹のもぐさの話が面白かった。

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最後にまとめ
竹生島
古来、信仰の対象となった島で、神の棲む島とも言われる。南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、
宝厳寺(西国三十三所三十番)がある。竹生島神社は、明治の神仏分離令に際して弁才天社から改称した。
竹生島は神仏一体の聖地であったことから、分離の際には少なからず混乱があったようである。ちなみに、
竹生島弁才天は相模の江島神社、安芸の厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられる。

戦国期には、近江国小谷城主であった浅井久政(浅井長政の父)が、
長政への家督委譲を目論む家臣団によって一時的にこの島に幽閉され、隠居生活を強要された。
全文ウィキペヂァ抜粋


長浜城へ続く

2015/05/06(水) | 写真 | トラックバック(0) | コメント(2)

雪の八坂神社、清水寺、平安神宮散策

遅ればせながら 新年あけましておめでとうございます
本年もマイペースで更新していきますので、どうぞよろしく
お願いいたします


正月に関西は雪が降りました、さっそく京都の雪景色を撮りたいと思い
初詣に出かけました。何回も出かけている場所ですが雪景色となると
格別な風情があり 心わくわくしながら撮りまくりました。
そのうちの一部をUPします。



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八坂の塔
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子安塔は、聖武天皇、光明皇后の祈願所と伝わっていますが、詳しい創建時期はわかっていません。
現在の建物は明応9年(1500)のもので、明治の終わりまで仁王門の左手前に建っていましたが、
本堂の南に位置する、錦雲渓を隔てた丘の上に移築されました。高さ約15メートル、檜皮葺の三重塔の内部には、
子安観音(千手観音)をお祀りし、名前の通り安産に大きな信仰を集めてきました。
平成25年(2013)に修復が完了し、建立当時の鮮やかな朱塗りの塔がよみがえりました。
西門、三重塔、経堂、開山堂、轟門、朝倉堂、回廊、本堂までがずらりと並ぶ、見事な景観が楽しめます。


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音羽の瀧(おとわのたき)
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石碑に刻まれているのは、現在の岩手県奥州市地域を本拠地とした蝦夷(えみし)の
首長・阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の名前です。
二人は平安朝廷の東北平定政策に対して勇敢に戦いましたが、
郷土の犠牲に心を痛め、征夷大将軍・坂上田村麻呂公の軍門に下りました。
将軍は両雄の武勇、器量を惜しみ朝廷に助命嘆願しましたが、
許されず処刑されてしまいました。石碑は、平安建都1200年を期して
1994(平成6)年に有志により建立されました。

(京都観光ガイドより)

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2015/01/18(日) | 写真 | トラックバック(0) | コメント(7)

嵐山渡月橋から広沢の池そして龍安寺へと紅葉狩り

11月24日
嵐山へ紅葉狩りに行きました。紅葉狩りの狩りとは何か変な言い方ですが
古から山へ獣を狩りに入ることが次第に野草を取りに山へ入る事にも狩りと
いう言葉を使う様になり紅葉を鑑賞しに行く事にも使うようにもなったとか
いろんな説があるらしい。間違ってるかな?まぁとにかく出かけました^^
毎年嵐山には来ていますが、今回は渡月橋から清涼寺、広沢池へと向かい
そこからバスで龍安寺金閣寺方面へと行く事にしました。少し強行軍です
最近運動不足で肥満気味なのでね。身長168cm体重は72kgは明らかに
肥満だろうな。


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広沢の池は古来から観月の池として知られ、数々の歌に読まれている。

西行法師による「やどしもつ 月の光の大沢は いかにいつとも 広沢の池」
松尾芭蕉による「名月や池をめぐりて夜もすがら」


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野点(のだて)を催してるらしい。
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龍安寺は次回に続く

2014/11/25(火) | 写真 | トラックバック(0) | コメント(0)

芭蕉さんが眠る義仲寺へゆく

行く春を近江の人と惜しみける

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比叡山ケーブルで琵琶湖側坂本駅へ下る
坂本は比叡山延暦寺の門前町として栄え、50カ所の
里坊(修行を終えた老僧に与えられた坊舎)がある。
坂本は穴太衆と呼ばれる城の石垣などを作った石工集団の
出身地であり、彼らが作った石積みは穴太積みと呼ばれる。


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芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ
大阪の旅舎で亡くなった。享年51歳遺言に従って遺骸を義仲寺
に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人10人、遺骸を守り
川船に乗せて淀川を上り伏見に至り13日午後、義仲寺に入る。
14日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。
其角の「芭蕉終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、
今も当時のままである。墓石の「芭蕉翁」の字は丈草の筆と言われる。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当時の年中行事で、
現在は旧暦の季節に合わせて、毎年11月の第2土曜日に営む。
(全文 義仲寺案内書転記)


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2014/06/01(日) | 写真 | トラックバック(0) | コメント(5)

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